2015年11月13日

新しいホームページが出来ました!

2015年6月末から、ウィーン日本語キリスト教会に新しい牧師が赴任致しました。

ホームページも変わりました。

どうぞこちらから最新情報をご覧ください。
www.japanischewien.com

Facebookもあります(アカウントがなくてもご覧いただけます)
www.facebook.com/japanischewien

どうぞ新しい牧師に会いに来てください。

旅行中の方、初めての方、お久しぶりの方、
ウィーン在住の皆様にお会いできますことを楽しみにしています。

ウィーン教会.jpg
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2012年10月05日

2012年9月23日 礼拝メッセージ要約

「仕事に命を賭ける」 ピリピ人への手紙2章17〜30節
高木 攻一牧師 
 重要な教理、またその適用でもなく一見して個人的用件、計画でしかないように思える箇所ですが、そこに紹介されている三人の人物に共通して輝いている姿勢があります。それは自分に託された仕事に命がけであることです。人は働きつつ生きる存在です。生きることは働くことです。働く神は御自身に似せて人を働き生きる被造物とされました。人それぞれがおのれの天命とする仕事を持ち得ること、またそれに全生命を注ぎ込めることは幸せです。しかしここに、すべての人を命がけにさせる仕事があります。それはキリストの仕事です。パウロが使徒として、テモテが牧師として、エパフロデトが教会の使者として命を掛けて従事したのはキリストの仕事でした。それはキリストが十字架で成し遂げられた罪の赦し、福音を告げ知らせる宣教の働きです。パウロはそのために捕われ将に殉教を覚悟でした。エパフロデトはそのために重病ともなり生死の境をさまよう程でした。何がそうさせたのでしょう。それはキリストの愛以外のなにものでもありません。キリストが神であるにもかかわらず自ら人となり、僕として十字架に罪の赦しのための犠牲となり、不義なる者を義とする愛の業を啓示された彼らは、そのキリストの愛に取り囲まれ、命を捨ててくださった方に自らの命を捧げようとしたのです。殉教を覚悟したパウロは17節で、自らの死を「注ぎの供え物」とみなし、それが神への礼拝行為であると認識しました。礼拝は人としての最高にして究極の営みです。神は霊と真をもって礼拝する者を求められます。しかし礼拝は単なる礼拝儀礼なのではなく、全生活をかけてキリストの福音に生き、福音を立証する生き方そのものなのです。自分の職業を通じて隣人への愛として仕えると共に、キリストの愛を受けた者として、キリストの十字架の福音を自分なりの仕方で証言していくことが霊的な礼拝なのです。
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2012年10月02日

2012年9月16日礼拝メッセージ要約

「落着いて信頼する」 イザヤ書30章15〜19節
高木 攻一牧師
 ここで私たちに語られている主のお言葉は明確であり、「落着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る。」です。ヒゼキヤ王が治めたユダヤのエルサレムは、古代の帝国として勢力を伸ばしつつあった残忍獰猛なアッシリア帝国の脅威にさらされていました。しかしながら預言者によるこの神の勧告は民によって退けられました。「あなたがたは、これを望まなかった。」否むしろ、「いや、私たちは馬に乗って逃げよう。」と危険を回避するための手段としてエジプトの王パロに援軍を要請したのです。だが馬による逃走は成功しません。「それなら、あなたがたの追っ手はなお速い。」エジプト軍はアッシリア軍に敗退し,頼みの綱は切れ、エルサレムは強靭な軍隊に包囲されてしまいます。馬により逃走する姿こそ今に生きる人間の実相です。アダムがエデンの園で神に背いて禁断の木の実を食べ、裸に気づいて薮の陰に隠れて神から逃走して以来、私たちの心の現実は、神から逃走しようとしていると言って過言ではありません。現実を受けとめそこねて逃避、逃走する結果は惨めな敗北があるだけです。にもかかわらずここに福音があります。「それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられる。」ヒゼキヤ王が謙り神殿で主を祈り待ち望んだとき、思いも寄らない神の不思議な介入が起こりました。イザヤ37章36節によれば、主の使いが18万5千人の敵軍を打ち殺したと言われるのです。神が憐れみをもって立ち上がられたのです。同じ憐れみをもって神は人類の罪からの救済のために立ち上がられました。それがキリストの十字架です。罪の赦しを十字架に確信する者を神は民とし、現代においても現実逃避することなく、落着いて神に信頼して祈り待望するときに、その現実がどうであれ、神は生きて働き恵みによって介入くださるのです。「信頼すれば、あなたがたは力を得る」主はそう約束されます。
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